Tetsuo Ito's Diary

 

3月 4日 今日は待望の休息日。ほぼ太陽が昇ったあとの朝食で粥だった。珍しく快晴の空では無い。雲間よりこぼれる太陽の光は思ったより強く厳しい。雲量は90%近いのに光は強く地上に届いている。

荷物も積まなくて好いので、時間の経過がゆったりとしている。

風は珍しく北西の方向より吹いている。風力?は解らないが5〜7mくらいの風。風が乾燥しているのかどうかあまり解らない。

数人で雑談をしていたら、ウマ−ルさんがきた。ラクダの毛を僕の両手首に巻き付けてくれる。日本で若者がしているミサンガ風に。理由を聞くとラクダの生命力が僕の体力を回復させるからとのこと。

なにか急にタイムスリップをして、気持ちが恋をした時の様に暖かい。言葉も通じなく生活習慣も違う人からまるで恋人のようにしてもらえるなんて。

ウマ−ルさんありがとう。親切がとても嬉しくて、おセンチになる。

アユップを通訳にウマ−ルさんやニアズさんと色々話をする。日本のバイクの話になり日本のバイクがすごく優秀で燃費も良く、ぜひとも手に入れたいとのこと。どうもホンダ ス−パ−カブのことらしい。日本から送って欲しいとのこと。

彼は出発地のルクチンで沢山のブドウの栽培と羊の放牧を仕事にしている。さすがに頭領に選ばれるだけあって、人間的にも素晴らしい。人間味豊かな態度や表情には人種や住む地域や言葉が違っても人間本来の共通のム−ドがあって、仲間としての暖かみが伝わってくる。

今回の旅はウマ−ルさん達にとっても非常に珍しい体験との事。彼がいうには彼らがニアズと行く旅は羊を放牧に行く旅。とてもきれいな山々や緑の草原で、何故わざわざ何も無い砂漠に来る我々の考え方が理解出来ないとの事。おまけに歩いて来るなんて。

ウマ−ルさんはあの夢の様な広大な流砂の砂丘の初めての出会いの時、我々全員にあの緑の干しぶどうを1Kgづつプレゼントしてくれた。。これからの長い冒険旅行に皆が健康で仲良く楽しい時間が過ごせる様にと!。勿論この干しぶどうは彼のぶどう畑で採れたもの

こうした冒険旅行では時間の制約が無いこの様な休息日の人間同士の心のふれあいが、さわやかでつつしまやかで皆の気持ちをほっとさせる。

やはりウマ−ルさんから見ても僕が一番ひ弱に感じるのだろう。でも本当にすごく嬉しかった。恋人にもらったミサンガを大切にします。

お昼時に田中隊長が日本のラ−メンを皆に振る舞ってくれた。皆は大喜び。タイミングがいい、ナンだけの昼食だっただけに。

田中隊長について、彼は口数が少なく朴として冷静な人物で砂漠旅行は過去にも経験がある。バイクが好きでレ−スのライセンスもあり、キャメルトロフィ−もチャンスがあればやりたいとのこと。

勿論シルクロ−ドにも造詣が深く、特に楼蘭には特別な思いがある。1992年には日本と中国の共同の探検隊に参加しており、米蘭から楼蘭を徒歩で目指したが100Km手前で断念した経緯がある。

本格的なアウトドア派で装備等にも詳しいし、皆からはサイボ−グと呼ばれるほど意志が強くタフな人物。何時も先頭を歩いたり最後尾を歩いたりし、おまけに隊の皆にすごく気を使っている。キャメラを撮るにもアングル等をすごく気にしている。

話をしてもまったく疲れない人で楽しくて色々な分野に詳しい。今までの仕事は航空機の設計等に情熱を燃やしていたが今回の旅(冒険旅行)をきっかけに10年近く勤めた会社を退職した。奥様とのやりとりが微笑ましい。

楼蘭といえば、長澤 和俊教授と大地の会の会長さんの小倉さん達もこの3月28日を目指してジ−プでの楼蘭入りを計画している。(3月28日はあのエルデックが最初に楼蘭を発見した記念すべき日)。

我々もあと二日の日程で楼蘭に到達する。永い永い想いを込めたシルクロ−ドの町、楼蘭に着いたら僕は何を感じるのだろう。京都で用意をした数珠も持参したしあとは二日間歩くのみ。人生の総点検の為のこの冒険旅行の最大の目的地、楼蘭が、旅の大きな夢がもうすぐ現実化すると想いながらボンヤリとゆったりした時間を過ごす。

今日まで旅を続けられたことは、隊長夫妻や皆さんのやさしい気持や思いやりのおかげと感謝したい。

休息日の、のどかでゆったりとした一日。人生の中の最高に想い出の一日。こんなに閑として過ごせる自分の姿。

砂漠バンザイ、皆さんありがとう。ラクダ使いさんありがとう。

金色に輝く葦の原の中にラクダが24頭がのんびりとたたずんでいる。どのラクダも繋がれていないので、あっちへ行ったりこっちへ来たりとのんびりしている。

ラクダも苦痛が無ければ逃げたりしない。自由が大切なんだ。

今、頭の上を数羽の小鳥が飛んでゆく。チュルチュル チュルチュルと鳴きながら。だんだんと数が増えて、今は20〜30羽もいる。小鳥のオアシスなんだ。

皆は例の小川で思い思いの事を、ある人は頭を洗い、ある人は洗濯をして。僕ももう少し元気であれば頭を洗いたいが、もう少しの辛抱。

でも今日は砂漠に入って初めて下着を全部替えた。休息日なのでテントに誰もいない時が多いから。やっぱりすごく汚れていた。乾燥していても下の下着はやはり汚れがひどい。靴下は沢山持参したんでよく替えたが、下着は替える元気もなかった。

今は朝の雲も大部分が無くなり、暑いぐらい。風はさわやかで皆思い思いの時間を過ごしている。砂漠の中ののんびりした一日。こんな旅を望んでいた。ところが今までは強行軍で歩いて歩いてまた歩くという日々が続いた。12日も休み無しで。

今までラクダにまったく乗らない人達が裸のラクダに乗って楽しんでいる。僕ときたら初志はラクダには絶対に乗らないと、決めていたのにほとんどがラクダさんの上。乗らないと決めた初志は一体なんなのだ。

記録係りのリ−ダ−なんて、僕はまったく何も出来ない“過保護ジジイ”のオッサンをやっている。

珍しくVTR用のソ−ラバッテリ−チャ−ジャ−を取り出して、太陽に向けてセットしてみた。思ったよりうまく充電できる。明日からは長い日数の間、皆さんに迷惑を掛けた分を取り戻す覚悟でがんばろうと思う。

 

 

 
3月 5日

 

 

 

 

今日はすごく元気なのでうれしい。金色に見えた葦の原を後にして歩き始める。土漠の砂漠を南に向けて少し歩くと、かなり東の方にキャンプ地と同じ様な葦の原があった。丘の様な状態の地形を登ると南は30〜50mくらいの谷。谷の様な地形をしばらく歩き2、3Km先の丘を登ると高原状になる。

土漠の地形で足元はボソボソと靴が沈む所を歩く。少し行くと地面に杭が打ってある。直径15cmくらいの杭を足で蹴るぐらいではビクともしない。誰が何の目的でこんな場所に杭を打ったのだろうと不思議に思う。

一本だけと思ったら東西に何百本も打ってあり、おまけにほぼ正確に等間隔で一直線になっている。これは少し変だと思う。一体何の為?。

考える余裕も無くさらに歩く。ダラダラと下りの土漠を(たぶん下り)。この辺りは草もまったく無い。色彩もない無味乾燥した場所とは、こういった所だと思わず納得した。たまに車の轍もあるし、誰がこんな無味乾燥な所に来るのだろうと不思議な気持ちで歩く。たまには色のついたものがあればいいのに、と思いながら歩く。

数時間歩くと周りの雰囲気が変わり、ラクダ草が現れヤルダン地形になって来た。ヤルダン地形と言うのは、土地が風化作用のために柔らかい所が削り取られ、固い所がまるで壁の様に残る。東北から南西の風の為に大きな溝が何本も続いている。溝の深さはさまざまで、溝と溝の間隔も一定ではない。溝の壁が所々で崩れていて、溝の底は砂であったり土漠のようであったりする。

いまのヤルダンの高低差は1、2mくらいで少し歩き難いぐらい。ラクダ草の枯れたものがかなり多くなってきた。枯れた様に見えるだけかも。高いところに乗ると崩れてしまう。ほとんどの高い所はラクダ草がしっかり根をはっているので、低い所を歩くケ−スが多くなる。風で運ばれる砂もラクダ草の周りに多く積もっている。

砂塵の舞う中を縫う様に歩く。少しづつヤルダンが高くなってきた。ヤルダンは我々の進む方向に対して左側後方から右側前方に流れているので、南に進みたい我々はどうしてもそのヤルダンを横切ることになる。元気なあいだは良くてもだんだんとつらくなる。

それにしてもヤルダン地形は本で知るのみで、現実にそこを歩くのはすごく大変なことだ。

昼ごろからはさらに大きくなったヤルダン地形になったが、少し歩いた頃にすごく高いヤルダンが現れた。総隊長が急におおはしゃぎになる。なにかと尋ねるとメサだという。我々はあまりピンと来なかったが、1930年にあのヘディンがカヌ−で楼蘭を探検した時のメサだと言う。

思えばすごい事だ、今はこんなに乾燥している地形なのに1930年頃には辺り一面が水で覆われていたとは。

さまよえる湖 ロプノ−ルなのだ。大昔のロプノ−ルがそこにあった。

我々はこの地がかつて湖とは現在ではとても想像出来ない。あのヘディンの歓びの気持ちが手に取るように理解できる。彼の感動した心臓の鼓動さえも。

現在我々がかつてこの地が湖であったと確認出来る事は、塩の析出やあたり一面にある貝の死骸。白い石の様に見えたのが実は貝だった。この貝がかつてこの地が水で満たされていた事を証明する証なのだ。想い出の為にこの小さな巻き貝をポケットに入れた。

ウマ−ルさんもその貝を一つ拾って僕にくれた。こんなに沢山の貝が生息していた時期があったのだ。

それにしてもこのメサにヘディンはカヌ−で来たとはとても想像出来ない。

急に自分の心の中に“さまよえる湖”のイメ−ジが沸き上がる。子供の頃の疑問であった湖がいまここに有る。湖が歩く訳が無いとツッパタあの頃が。

それにしてもこの地が水で一杯だったとは、今ではとても考えられない。自然の偉大な変遷の証人がメサなのだ。偶然に出会えた事は本当に我々は幸運だった。

総隊長は偶然に見つけたメサに感動してここで小休止。確かにメサに登ると周りが全て一望に望めて、かなりの高さを実感する。40〜50mの高さがあるだろう。僕もしばらくしてヘディンの本の写真をおもいだした。あの写真のメサなのだと思うと感動した気がした。

楼蘭が近い。

歩き始めてまもなくタリム川の支流らしきものに出会う。勿論今は水がない。少し大きな木も現れる様になり、ラクダ草もおおくなる。菊の様な草も昨年の秋には花を満開に咲かせていたのだろう。花の胞子がタンポポの様に一杯ついている。

我々が歩くと胞子が風に飛んでいる。ここは少し前には水があったのだ。僕はラクダに乗っていたので、鬼頭さんがその花をVTRに収めようとしている。こんなに砂塵が舞う乾燥した所に花が咲いていたとは!。

小さな潅木が所狭しと辺り一面に生えている。枯れて見えるだけでこの周り全てが生きているのだ。多分水の多くなる夏にはこの辺りまで川が蘇るのだろう。そうでなければこれだけ大きい木も育たないし、菊のような花も咲かないと思う。

よく見ると潅木の根元に穴がある。まわりには同じ様な穴が沢山ある。どんな動物が居るのだろう。色々と考えながら進む。

タリム川の支流らしき溝に沿って進む。川は5、6mくらい下にあり、川沿いには大きな木も多く、高さが20mを超すものもある。川を除けば辺りは平坦でかなり先の方までみわたせる。同じ様な地形が続き時たまヤルダンの高い物もある。林の様に見えるほど木の密生している所もある。

かなりの時間、川に沿って歩き、太陽が西に傾いた頃にその川床をキャンプ地にする。川幅は20mくらいで深さは5、6mくらい、砂地で平坦な所を選びキャンプ村が出来上がる。

枯れ木が沢山あるのですぐにラクダ使いの為の焚き火が始まる。着火するのは何時もアユップの役割のよう。我々は炊事の為の火は日本から持参したカセットコンロ。ラクダ使いさん達はカセットコンロより薪での火が好きの様子。

着火は我々では思い付かない工夫がある。細長く切り裂いたタイヤの切れ端にマッチで火をつけて、その火を細い木の切れ端に移す。少しぐらいの風があっても確実につく。我々日本人には無い工夫だ。時たま苦労して着火していた時に、日本から持参した着火剤をアユップにあげたらすごく喜んでくれて、今ではそれを使っている。

炊事の件だが毎日お湯を沸かすだけ、あとはアルファ−米に湯を入れて15分待てば炊飯した米となんら変わらない。後は沸かした湯に入れてあるレトルト食品を取り出してそのご飯にかけて出来上がり。レトルト食品がカレ−だったり、すきやき、中華だったりする。それにス−プの素に湯を注ぐ。

ラクダ使いさん達はウイグル茶にナンを入れてふやかして食べる。副食は菜っ葉の塩漬物をつまんだり、乾し肉を食べたり、そうめんみたいのを食べている。我々と同じものはあまり好きでないみたい。

水は最初からルクチンの南に流れていた川の水。ほぼ真水で羊の毛や小枝やが混じっていたが湯に沸かして使うのでなんら問題はない。

勿論初めてこの事実を知ったときは唖然とした。濁っていて色々何かが混じっている水を知らずに飲んでいたなんて。日本ではとても考えられないこと。ただ砂漠での極限状態での生活ではその水も大切な炊事用の水だし、ラクダさんの重要な飲み水なのだ。

慣れればどって事はない。塩分が少なければ何の問題も無い。ご飯が少し塩辛いのとティ−タイムのコ−ヒ−が多少うまく無いだけ。

今使っている水は葦の原の水なので、かなり塩分が多い。アルファ−米にその湯を入れるのでご飯はかなり塩辛い。コ−ヒ−はまず飲めない。

砂漠の地盤は長い年月の乾燥と水のある時期との繰り返しで多かれ少なかれ塩分を多く含んでいる。そこを流れる川は当然のことで塩分を含む水になる。

そうした理由でかなり塩分が多いので、よけいに喉が乾く。水を飲まざるを得ない。水が不足する。

おまけに南に進むのと気候が春になるのとで、日増しに気温はあがるので歩くと暑くなる。よけいに喉が乾く。水を飲まざるを得ない。水が不足する。

毎日がこの調子なのだ。

今日のキャンプが川床ということもあって、若い人達が穴を掘っている。ここでも“過保護ジジイ”の僕は用なしだ。2mくらいを掘ったが水の出る気配はない。

用なしの僕は川床の高みに腰掛けて一休み、そこに突然、野うさぎが高い所から飛び出す。驚いたのは野ウサギさんだけ、あっと思う間もなくユ−タ−ンしてまた元の潅木の原へ。

それを見ていた我々は声を出す間もなく、穏やかな気持ちで心が一杯になった。こんな荒野に野うさぎがいた。きっと沢山のうさぎがこの辺りに生息しているのだろう。何もないと思っていた事が覆されて、皆はほっとした。

今日のお昼頃から沢山の穴を掘っているやつの正体が解った。野ウサギのやつが掘った穴だ。どうも根元ばかり掘ってあるのは根っこを食べているらしい。かなり沢山の野ウサギが生息しているようだ。

歌にあるあの...待ちぼうけ、待ちぼうけ、ある日..みたいなんだ。

そんな地形のキャンプ地で今夜も過ごす。相変わらず今日も進行方向の右は男性のトイレ、女性は反対側。川床なので登るのが大変。サラサラの砂の為に簡単に登れない。やっと登ってトイレを済ますと今度は同じ地形なので、自分がどこから登って来たの解らなくなる。キャンプ地が川床の為に上にあがるとキャンプ等が何も見えないからか。

慣れないと自分が何所から来たのか、本当に分からない。多分、川が低い所に有る為に上からは何も見えない。鬼頭さんはトイレに行って迷子になった。この地形での夜のトイレはかなり元に戻るのが難しい。

いよいよ明日は憧れの楼蘭。あと15Kmほど。3時間もあれば着く距離だ。ヤルダン地形がどんな程度かに左右されるが。

 

 

 
3月 6日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日は待望の楼蘭に。川床のキャンプ地を出発して烽火台を目指す。砂埃を舞い上げて楼蘭へ。あと15Km歩けばいいのだと、思うと元気になれる。始めのころはタリム川の支流に沿う様に歩く。土漠の地形でウサギのねぐらを見ながら進み、やがてヤルダン地形に入る。

前にも書いたがヤルダンは、土地が風化作用で深い溝状に削られている、狭い渓谷のようになっていて、谷の深さは2m〜20mで幅はさまざま。何筋もあって、残ったものが壁のようになっていて、壁が所々で崩れている。大きなきのこが筋状に並んでいる様な地形をいう。

ヤルダンの大型のものがペトラ(ヨルダン)にある。映画インディ−ジョ−ンズの最後の聖戦の神殿のシ−ン(壁状の所)と同じ。インディ−は犬の名前だと言って馬で駆け出す最後の場面。

我々が直面しているのはあのシ−ンの小型版。渓谷と言うより両側が垂直に立った壁のほうが解り易い。ただし壁は所々で崩れている。

壁は北東から南西に連なっている。北東の風が強いのだろう。

そんなヤルダン地形を歩く。右寄り(南西)に少し歩いて左(東)に行く。その繰り返しで歩く。ヤルダンが低いあいだは谷を歩いて山に登り、要は壁を縫う様な感じで。少しずつヤルダンが大きくなり、歩いている我々には目の前に土の壁があるだけで何も見えなくなる。

前が見えないので進行方向が解らない。ストップしてどちらへ行くのかウロウロ迷うと若者(奥山さんや田中隊長)が前の方のヤルダンの上から呼びかけてくれる。

あそこだ!!...また前に進む。また迷う。

同じ事の繰り返しで少しずつ進む。こんな所で迷子になったらどうしようと、必死で歩く。

そのうちに壁の高さが10mを超して、壁の切れ目が少なくなる。切れ目がないので止むをえず登ることに。登るといっても壁の崩れているところを探して登る。登って壁の上を歩くがまた壁を降りることに。降りる際にも同じ事を繰り返す。

上に登ると誰が何所に居るのかがよく解る。迷子になるのではという心配事は無くなった。

かなりの時間それを繰り返して、烽火台を見つける。かなり(2、3km)東にあり我々の進路も東よりに、変更する。北東から南西に流れているヤルダンを東に向かうのだから急に進行速度が落ちる。以前に増してヤルダンを越すのが大変になる。登る、降りる、がより頻繁になり“過保護ジジイ”の僕には過酷すぎる。これは楼蘭に入る我々に対する為のテストで拷問だ。

僕と藤原さんとヤルダン越えをしていると、すこし左手に道を発見する。大きな道でそこに行くとかなり大きなキャタピラ−で通った跡。どうしてこんな所を戦車らしき車が通るのか、信じられない。

道は一直線で烽火台の方に向かっている。二人はその道を歩いて烽火台に着く。僕らが着いた時には殆どの歩きのメンバ−は到着していた。

ラクダの一行はヤルダンを大回りしながらやって来る。かなり遅れて到着する。

ここからは二手に別れる。小仏塔を目指す組とラクダ隊と一緒に楼蘭(大仏塔)に直接行く組と。

烽火台はかなり大きくて高さも50、60mはある。中段に腰を掛けて周りを見渡すとほぼ真東に小仏塔が見える。真南に楼蘭の代表的な文物の大仏塔が見える。小仏塔まで3kmくらいで、大仏塔までは4kmくらいか。

まわりはヤルダン地形で烽火台の北のほうがヤルダンが大きい。見渡す限りのヤルダンで壮観な感じ。こんな地形を歩いてくるやつがいるなんて信じられない。そいつは馬鹿で狂人に違いない。僕は死にもの狂いだったので少しマトモ。

それにしてもヤルダン地形はすごい。グランドキャニオンの小型版で眺めているのは良いが歩くのは地獄だ。歩くと言うよりもフィ−ルドアスレチックのよう。垂直の壁をよじ登って降りるということの繰り返し。

烽火台で休んでいる姿を見ても誰も疲れた表情をしていない。僕は疲れていてただボ−と周りの景色を見ている。まったく色の無い世界だ。

小休止して今度は小仏塔を目指してヤルダン越え。今度もヤルダンが大きくて歩くのは大変だった。

小仏塔を出発していよいよ楼蘭へ向かう。今度は南西に流れているヤルダンに沿って歩くのでかなり楽に歩けた。谷の所ばかり歩くので何所に大仏塔があるのかが解らずあるく。やはり目標の無い歩きは辛い。あとどのくらい歩けば着くのか見当が付かない。ヤルダンの右手側や左手側を歩いている人がいても見えない。

途中で後ろを振り返ると田中りかさんがいたのに、15分も歩かないうちに彼女は僕の前にいる。僕の右手側のヤルダンの向こうを歩いていたのに。ヤルダンを歩くのはこの様な事がよく起きる。

想い出の為の枯れ木を拾って歩く。この辺りは生きているものは何も無い。木も草も何もかもが死んでいる。千年も昔に廃虚になった町。楼蘭にいるのだ。

大仏塔の真横に来ても気が付かなかった。ヤルダンの高みに仲間が合図してくれていてやっと到着した事に気が付いた。左を見るとあの大仏塔があった。楼蘭だ。

LAがそこに有る。待望の楼蘭に着いたのだ。あまりに疲れて感動が無い。感動が小さいのは歳のせいか、疲れのせいか。