Tetsuo Ito's Diary

 

3月 1日 日の出前の朝の、明けの明星が眩しいほど光輝いている。

昨夜よりラクダ使いのアフマットの体調が悪い様子。二人の息子も心配なのか珍しく朝の荷物の積み込みを手伝いにくる。アフマットはこの旅のなかで一度も歩いたことが無いので、今日も途中までは誰も体調の悪さに気が付かない。でもよくよく考えるとかなりオカシイ。自分自身がラクダに乗って、我々お客を一度も乗せないなんて。

アフマットの息子の名前はイスラム教なのにイスラエルとヤコブ、旧約聖書のユダヤ教のイシマエルとヤコブならまだ理解できるが。勿論アフマットは敬虔なイスラム教徒ではない。かなり自分勝手な男。

昼まえの左側の砂漠は昨日のピンクの砂漠とは違って碧色をしている。碧と言うのは緑でなくて。翡翠の碧。

まわりの丘は不思議な色合いの灰色。緑なのか青なのか紫なのか訳のわからない色をしている。山毎に違う色をしている。

砂漠と言うのは本当に“漠”だと思う。“漠”“漠”なぜ水が無いのにサンズイがつくのだろう。

地理学的には北緯35度と南緯35度は高気圧帯で常に天気は晴れている。当然その地域は世界中どこでも砂漠になる。近くに大きな湖や海が有ると砂漠にならない。日本はそのケ−スになる。

それにしても毎日が晴れて、どうしてこんなに快晴ばかり続くのかと不思議になる。ほぼ毎日南よりの風が吹いている。

キャンプ1以来で始めての平地のキャンプになる。水の流れた跡にキャンプ村ができる。何時ものように荷物をラクダから降ろして、一休み。

2、3mほどの直径で2mくらいの高さのラクダ草が一杯あるキャンプ地で少し南に小高い山脈みたいなのがある。西や北や東側は20〜30km遠くにやはり小高い山脈に囲まれた盆地の地形の南より場所。少し南に傾斜している。

アフマットはよほど体調が悪いのかすぐに横になっている。

7:30に太陽が西に沈む。

今日の夕食はカレ−ライス。日本にいた時はカレ−を食べると胸焼けがするのできらいだったが、こんな砂漠ではカレ−ライスもかなりGOOD。皆はすき焼きどんぶりと同じくらいカレ−ライスが好きみたい。

ひょっとしたら明日は突然に水(川)が出て、久々の休養日になるかもと感じたのは夢の中なのか。

相変わらず僕の体調もまだ今一つ良くない。 。

夢をみたせいか、日本の皆さん“お元気ですか?”今の自分の状況では相手の心配よりも自分の体調を心配しなさいと言われそう。

星が沢山あっても空が大きくて、星を感じさせない。そんな夜。

 

 

 

 

3月 2日 今朝は大事件が起きた。朝食をする間にラクダが逃げた。

それも11頭もの集団の脱走。案の定アフマットの乱暴者(キング)がいない。きっとキングが他のラクダをそそのかして大脱走した。いつもあんなにひどくぶたれれば何時かは反乱する。

イスラエルとヤコブが追いかける。すぐに捕まえて戻るだろうと多寡を括っていたのだが11:00になっても未だ帰還しない。朝食もなしなのに。

11:30 何も持っていかなかったので、水とナンを持ってその後を追いかける。ウマ−ルさんとアユップと奥山さんの三人がラクダ二頭に乗って。

お昼を過ぎても誰も戻らない。やっと奥山さんがラクダ7頭を引き連れて帰還した。皆から拍手がおきて、労いの言葉が飛び交う。

2:30頃になってやっと今日は停滞することに。僕は疲れていてまだ体調が本調子でないのでそのままゴロリと横になって、時の過ぎるままに過ごす。

ラクダを捕まえるのは大変。と言うのも、ラクダの性格で我々が走るとラクダも走る。ラクダを捕まえるにはユックリとラクダの前に出て行く手を阻むのがこつ。だから脱走したラクダを捕まえることは至難のわざ。ラクダの癖は進行方向には逃げない。だからラクダ達は東南の方向に逃げたのだろう。東南の山裾までは多分20〜30kmはあるだろう。北に逃げたのであれば昨日のキャンプ辺りまで。時間的にはもっと遠くに逃げられるかも知れない。

太陽が西に沈みかけてきたのにまだ戻らない。勿論我々はただボ−と待つのみ。どないしましょう?。

暗くなれば戻るべきキャンプの位置も分かり難くなるので、急遽、明るい内に烽火のための枯れ木を集めることに。全員が灯火のための枯れ木をかなり遠く迄探しに行く。

ラクダ探索の人たちが無事に帰還出来るように暗くなったら枯れ木を燃やして、彼らの道しるべにする予定。

今日は当然一歩も前進していない。楼蘭まで52kmでのストップ。あと楼蘭まで2、3日のところ。

たまたまアフマットは体調が悪く彼にとっての休養日となる。夕方には羊の肉を何の調理もせずにナイフで切っては食べていたのでもう大丈夫か。現在20:00日没後だがまだ十分に明るい。

我々も夕食を済ませて、辺りは暗くなってきたのにまだ誰も帰還しない。どうなるのだろう。全員の気持ちも少し不安で落着かない。

何度も書いていると思うが、砂漠というところは本当に不思議なところ。なにも無く夜ともなれば星明かりのみで辺りは漆黒の闇、おまけに風の音以外はなにも聞こえないが、でも不安になる事も無い。大自然の懐の深さなのだろう。

不安になっているのは探索に出かけた5人のこと。2、3人のグル−プで一時間毎の交代で灯火の見張り番をすることになる。夜を徹して灯火の見張り番。

もう少しでPM10:00。やっとヤコブが帰ってきたが、疲労と空腹と自分の責任の重さに口数が少ない。少し落ち着いてから様子を聞く。

5〜6km先にラクダとウマ−ルさん達がいるとのこと。よかった。よかった。あと1〜2時間で全員帰還の予定となり、夜を通しての灯火の見張り番も変更になりそう。

23:00ころにやっとアユップ、ウマ−ル、イスラエル、の三人がラクダと一緒に無事に帰還した。心より喜んで握手をするもの、労いの言葉をかけるもの、歓声が飛び交い皆の姿が松明の灯かりに踊って 今までの暗い雰囲気は明るい何時もの我々になった。

頭領のウマ−ルさん本当にご苦労さま。他人(イスラエル、ヤコブ)のミスでも自らが先頭に立って探しに行く彼の人間性がすごく良く理解できた。またアユップはただの通訳だけでなく、彼らの仲間との連帯感は素晴らしいものが有る。

余談だが彼らラクダ使いさん達の視力は我々の持参した双眼鏡よりも良く、かなり遠方の動物をよく見つけている。

それにしても周りは漆黒の暗闇、星明かりがあるとはいえ灯火も無しで、帰ってこられる不思議。彼らの人間としてのパワ−の大きさ、またそれに引き換え我々現代人の人間本来の能力の喪失。

自分だけだったらドウスルノカなにが出来るのか、我々現代の人びとの無くしたものは非常に大きい。替わりに得たものは一体何なのだろう。

悲しい事だが、余りにも捜索が過酷だったせいか、ラクダが1頭死んでしまった。誰でもその事実を話したがらない。大昔から常識ではラクダは一日に20〜30kmの移動だそうだ。それなのに昨日は往復で50km以上歩き、おまけにラクダさんは水も飲んでいない。東の山裾の近くまで追いかけて捕獲に成功したとのこと。

本当に捜索隊の皆様の苦労が想像できます。心からご苦労さま。

でも無事に帰還できからいいものの、もしラクダ達が捕獲出来なかったら、どうなったのだろう。必要最小限の荷物を残ったラクダに積み込んで旅を続けることになったかも知れない。危険が常に隣り合わせの砂漠旅行になるところだった。やはり自然は偉大で恐ろしい所だ。

 

 

 

 

3月 3日 本日は雛祭り。昨日の事件のあとだけに、砂漠でのお雛さまもピンと来ないが。でも隊員の半数が女性なのだから。

何年前かわからないが水の流れた跡での昨日のキャンプ地を後にして、ラクダが死んだと言う悲しい出来事もキャンプに置いて出発する。

ラクダ草の茂みを避けて全員が南の小高い山裾むけて歩き始める。30分もしないで山裾にたどり着いた。歩いているメンバ−は直線的に数10mの高さの山に登る。急な所は何時ものようにラクダの一行は右側のなだらかになっている方から迂回して、山の向こうへ。

二つほどの山を越えると、今まで見たこともないほど幻想的でファンタスティックな光景が広がる所だった。遠くなのか近くなのか、分からないような山々が連なりまるで孫悟空が出てきそうな場所。うす紫の様な色で走って近くに行きたいほど。

南側の西よりの下の砂漠でラクダの一行が、荷物を落として止まっているのが見える。何時もの事なので山の上の我々は小休止。山の上に古い立て看板が落ちていたので、看板にマジックペンで「楼蘭まで30km」と書く。ラクダに乗っているメンバ−には悪いが、この看板を背景にして記念の写真撮影をする。

あまり幻想的なのであのファンタスチックな山々を、水野さんに頼み込んで一枚パチリ。きっと素敵なあのうす紫の山々は僕の脳裏の中に鮮明に刻み込まれる。

10分も歩くと中国開放軍のキャンプ跡があり、スロ−ガンが石で刻まれたりしていた。かなり大きなキャンプ跡地で色々な残骸が砂の中に埋まり、沢山の軍人の生活の雰囲気が伝わってくる。

また少し歩くと突然に進行方向の視界が大きく広がり、やっとクルクタ−グ山脈を抜けた事が分かる。あの幻想的な山々がクルクタ−グの南の外れだった。

クルクタ−グ山脈を越えるのに6日を費やした。あの峰を越えたらと何度思った事か。今やっと山中を抜け出して、平坦な砂漠になった。

ここからはあのロプノ−ル。スエイン ヘディンが提唱した“さまよえる湖”。勿論今は水はない。昔の湖底を歩くことになる。平坦になる。

ロプノ−ルは1600年毎に動くと言う説をヘディンが唱える。1900年にエルデック(ヘディンの通訳)が楼蘭を発見した時は砂漠だった。1930年にタリム川をカヌ−で再度訪れ、メサに上陸した時には一面は湖だった。楼蘭は紀元330年くらいに廃虚であったことから、1600年周期と言う仮説になった。

ロプ砂漠に入ってすぐに昼食を。南側が開けた平坦な場所。北側にはあの幻想的なクルクタ−グが横たわっている。

何時ものナンと干しぶどうの昼食。一つのナンの8分の1ほどを食べる。すごく固くて口から血が出るほど。でも食べるものはナン以外にはない。コ−ラと果物がほしい。

砂漠を出たら“コ−ラと果物を嫌になるなるほど食べる”と空想して。

視界の開けたロプ砂漠の北のはずれ。左側(東)の数キロ先にはト−チカの様なものもある。少し歩くと地下壕みたいな物も有る。それにしてもコンクリ−トの厚みがすごい。15センチ以上もある。少しおかしいと思ったがそのまま通りすぎる。

平坦になったとはいえ高低さは数メ−トルはある。表面は塩分が多い為にかなり固くて思ったよりは歩き易い。右手にはタリム川の河口らしき形状の地形(数メ−トルの落差)があり壁の様に見える。我々の歩いている場所のほうが低い。

北側はクルクタ−グ山脈が東西に、山脈の南側は見渡す限りの広大で平坦なロプ砂漠。ここから先200〜300km南のアルキン山脈の麓までが昔のロプノ−ル。高低差が余り無いので、川に運ばれた土砂が川床に堆積して川の流れを変える。それがたまたま1600年毎になった。

そんなロプ砂漠を2時間ほど歩くと20mほど下がった低地に葦の群落が現れる。遠くから見ると金色の野原。まるで“風の谷のナウシカ”

少し西に傾いた太陽の光が斜めからさすためか。葦の群落が枯れているだけなのに金色に見える。

近くまで来ると葦の原の南側に小川があった。どうしてこんな所に小川があるのか。白く見えたのは塩の析出では無くて、寒いので氷だった。水があった。

待望の水があったので、勿論ここでキャンプになる。何度もチャレンジしても出なかった水が。ラクダも水の気配がするのか興奮ぎみ。荷物を降ろすのももどかしく我々もラクダも水を飲みに一直線。ラクダより先に我々の飲み水を汲む所を確保して、あとはラクダが飲み易くなるように穴を掘る。“過保護ジジイ”は何も出来ない。若手が。

東側は人間さま、西側はラクダくん、と場所をシェア−する。

僕は自分本位で氷になった所をナイフで固まりに切り取り、噛り付いた。冷たくてオイシイ。“過保護ジジイ”も自分の事となると体調の悪いのも忘れて何でも出来る。

水不足とは言えあまり塩分を感じない。スコップでラクダ用の穴を掘るが塩分が強くて人間にはとても飲めないとのこと。

やっと水があって明日は待ちに待った“待望”の“休養日”に決定する。この旅で初めての“待望の休養日”に決まり皆が浮かれている。

お雛さまと言う事で水野さんが女性達に干菓子のかわいいお菓子をプレゼントする。皆、予想外のプレゼントにおおはしゃぎ。

夕食後には珍しくティ−タイムがあった。僕は体調不十分なのですぐにシュラフの中に入りおやすみ。テントの向こうからティ−タイムを楽しみにしていた皆の声が聞こえる。僕の話をしている。よほど体調が良くないのだねと。

寒いし元気が無くて、楽しそうな会話に加われない自分が淋しい。

ロプ砂漠に入ったとたんに“色”が無くなった。今までとは違って殺風景な景色が続く。色もドブネズミ色一色になるは、山はないはラクダ草も無い。土漠の連続。

でもそんな中での葦の原に感心した。色の無い世界での黄色の葦の群生は本当になんて表現したらいいのか。まさに金色の原。僕は宮崎 駿をすぐに思い浮かべた。

金色の野にナウシカが降りるシ−ンを思い出した。キャンプ地のさらに東方にも南の方にも同じ景色が広がる夢のあるキャンプ地だ。

“” 青き衣を纏いたる者、金色の野に降り立ちて“”