Tetsuo Ito's Diary
3月13日
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今朝は何時もより早起きして8時30分頃に出発する。勿論日の出前。ラクダ使いのニアズは昨日の自分のラクダの救出がよほど嬉しかったのか、ニアズのラクダ担当の隊員全員をラクダに乗せたいと、執拗に隊員をラクダに乗せている。 昨日の失敗で距離が稼げなかった分を取り戻すべく、はやく出発して早く到着の予定。昨日のラクダ君の救出劇の慶びを思い浮かべて、全員が気分良く出発する。大変な事が待ち構えている事も知らずに。 東南にアルキン山脈が顔を出し東南以外の方角はすべて平坦な地形を歩き始める。途中で川を何回も渡りながら少し西よりの南に進む。足元は初めは亀甲型の地盤がだんだんと凹凸が激しくなっていく。 あと数キロ進めばこの凹凸ででこぼこの地形を抜け出せるのではと思いつつ。どれだけ歩いても同じ地形の地盤の足元だったが。高低差は60cmくらいで60cm間隔の凸凹の足元でかなり歩き難い。足元が平らの所は少ない。 2回程川を渡るがすこしオカシイ。川の深さが浅くなってこない。余りにも深すぎる川を渡った。僕は砂漠の経験が無く、初めての砂漠紀行なので、この異常さを隊長に訴えることはしなかった。後になって鬼頭さんにこの件でお叱りを受けたが。 少し状況を説明すると(正しかどうかは知らない)アルキン山脈は南東に見えて、川は東から西に流れている。水が東から西に流れると言う事は東が高いから。川が深いと言う事はまだ西に流れる距離が有るという事になる。 裏返しの事だがこのまま進めば、昨日と同じ地形で同じ様な湿地帯に入り込む確率が高い。勿論まだ川が現れる確率も高い。 もう少し西側を歩かないと昨日の繰り返しになる。川が深いと言う事は水量が多いと言う事。水量が多い事は源流に近いこと。東に寄りすぎだと思った。 全員が飲み水不足のためで頭がオカシクなった。ある川に出会うと先頭を歩いていた総隊長が進行方向に対して左に流れて行ってしまった。何時も先頭を歩いている総隊長は水が欲しかったのと、源流を辿りたかったのだろう。 総隊長が東に流れたので隊全体が左(東)に流れてしまった。これがすごくマイナスだった。これが距離を大きくロスする第一原因になった。 塩分の少ない川を選んで、僕はその水を飲んだ。手ですくって飲んだ水は少し塩分が有るが美味しい。皆は飲まないほうがいいと言うけれど。背に腹は代えられない。少し位濁っていようが今の僕には貴重な水だ。ラクダ使いさんのほとんどが空のミネラルの壜にその水を入れている。 僕は歩くのが遅いので止まって空のミネラルの壜に水を詰める余裕が無かった。残念だが仕方が無い。欲しいだけ飲んですぐに追い付く様に急いで歩く。 少し歩くと昨日と同じ様な葦の原に出くわした。昨日のミスを再度繰り返さない為にキャラバンは二手に別れて進む事になる。ラクダ隊は湿地帯を避けて大きく右手(西側)に迂回する。我々は体力の消耗を避ける為に直進する。 川と湿地帯が混在する地形を真っ直ぐ南西に進む。辺りは背丈以上のラクダ草や潅木が生い茂りたまに湿地帯や川がある地形を抜け出て視界が開けて来た。 ラクダ隊は我々の後方にかなり離れてしまった。時間もお昼だったのとキャラバンを一体化するために、我々はここで昼食にする。辺りは低い潅木がパラパラとあり足元は少し砂の混じる小高い土漠。 昼食はナンだけ。さすがにあまりにも固くて食べられない。鬼頭さんと僕は名古屋のお饅頭やさんの話になる。あのボタモチが美味しいとか、草餅が有名だとか。帰国したら絶対に草餅を食べるとか。こんなシルクロ−ドの砂漠の中で4000Km以上離れている名古屋の話なんてナンセンスだとか。非常にロ−カルな話に二村さんも加わる。 有名なお饅頭やさんが何所にあるのかと。一度連れていって欲しいだのと。普段はあまり口数の多くないフタチャン(二村さんのニックネ−ム)も乗り気。アイスモナカのあのお店が是非行ってみたいなどとバカな話に盛り上がる。帰国後に食べたいと皆が言う。 やっとラクダ隊が追いついたので出発する。低い葦のまばらに生えている湿地帯の地形を進む。今はニアズのラクダは鼻先からの手綱を解き放されている。一頭一頭が結ばれていない。ラクダさんの自由の進むことが出来る様にとのこと。 足元は所々がぬかるみだがラクダさんは賢くて巧みに避けて通る。本能なのだろうか? ラクダを放してからは数人が先頭を歩き、その後をラクダさんが自由に歩く。その後を我々が歩く。ラクダさんが通った跡は足元が踏み均されて凸凹は無くて、我々には高速道路のよう。歩き易い。 南西に向けてかなり進む。一時間ほどで湿地帯を脱出して礫の混ざる砂漠に出る。小高い丘で小休止。ラクダ隊はここで昼食になる。 総隊長は双眼鏡を取り出してアルキン山脈の麓にある米蘭故城を探す。米蘭の城壁と仏塔が見えると“ハッタリ”を言う。 人間の目の高さで見える距離はせいぜい2、3Kmくらい。一海里と言うのは人の目の高さで見える水平線までの距離のこと。ほぼ我々のいる現在地の辺りは平坦なので、少し小高い所から見ても10Km先までは見えないと思う。 真意は不明だがきっと皆さんを元気付ける意味での発言だろう。PM1:00頃に到着の予定だった為に理解出来ない人たちは誤解したかもしれない。 本当に見えたのなら10Kmだから2時間で到着する。全然でたらめなのだが。 礫の混ざる砂漠を歩く。少しずつ砂が混じる様になり、目印のアルキン山脈の雪を冠った三角の雪山が見えて来た。あの山の真北辺りに米蘭故城がある。 3時近くになって道路に出くわす。敦煌から米蘭を結ぶ道路だ。電柱にNoが振ってあり902番と903番の間に出た。Noは東から西に向かって付いている。電柱と電柱の間は50mで米蘭まで続いている。 ここで田中隊長は僕にささやく。前に来た時(田中隊長は以前に米蘭から楼蘭を経験済み)は920番あたりで北に向かって砂漠に入った。米蘭故城は1200番か1300番くらいだった筈だと言う。おまけにいくら早く着いても日没後だという。皆さんはその事情を知らない。1300番台だとすると大変だ1399番も有り得る。1399−902=497本。50mX500本=25000mになる。まだ25Kmも有るのだ。米蘭故城から米蘭のオアシス迄は6Kmはある。オアシスには25Km+6Km=31Kmになる。 もう少しで米蘭だと思って手持ちの水は全部飲んでしまった。もう水は一滴も無い。ガックリときた。まだ31Kmも有るのだ。 米蘭に向かう道路をひたすら歩く。皆はまだまだ米蘭が遠いとは思っていない。隊員を引っ張る為に、総隊長は一時間歩く毎にあと一時間を繰り返し言う。“”あと一時間“” を何度も繰り返したので皆は疑心暗鬼になる。絶望の行進が始まり、2、3時間くらい歩いてもオアシスは見えない。 喉が乾くが飲む水は無い。ウマ−ルさんが川で汲んだミネラルを一本くれる。僕は喜んでこの水をゴクゴクと飲み、1/3程残ったものを歩き通している奥山さんにあげる。 かなり歩いてもキャンプにする訳にはいかない。水も食料も全く無いのだ。水も無いし食料も無ければ、歩いてオアシスに着くしか無い。今となれば前進するしか残された選択枝は無いのだ。 太陽はどんどん西に傾き始め、気温が低くなってきた。行けども行けどもオアシスらしき景色は現れない。 歩行のピッチはかなり遅い。水が無い事と、長時間の歩行の疲れなのだろう。僕は昼食後からはラクダの上、歩いている人たちに後ろ髪を引かれていた。皆、水も無く黙々と歩く。歩いて歩いて歩くしか残された道は無い。 幸いな事は曇天で気温も低かったこと。 砂塵に煙る夕焼けが西に現れる頃に、やっと米蘭故城の東側の城壁が見えてきた。時刻は8時くらいと思う。やっと故城に着いた。あと一時間半でオアシスに着くと思うと何故か少し淋しい気がした。 間もなく東の地平線に満月の月が昇ってきた。飛砂の為に朧月だ。 米蘭故城から米蘭までは暗くなってしまった夜道を歩く。右手に民家の灯が見える。あと少し歩けばオアシスに着く。ラクダと隊員の歩行の為に辺りは砂煙でモウモウとしている。真っ暗で道も良く見えない。 オアシスの入口のゲ−トに着き、ゲ−トの横に渡して有る棒を上げて、入場する。オアシスに入ってから招待所に着く迄の道は幻想的だった。両側に高いポプラの並木が有り、満月を背に行進する。 日本では日頃が明るい照明の中での生活のため、月夜がどれほど明るいのかを忘れていた。ラクダに乗った自分の姿がオアシスの道に影を落としている。自分の影がこんなにも美しいなんて。 シルクロ−ドの冒険旅行が満月の日になされた。満月の月影のなかでの満願成就。 招待所に着いたのは10時30分を過ぎていた。 新疆時間の8時30分にも拘わらずラクダのキャラバンを見て、沢山の子供達が集まってきた。彼らにとってもラクダのキャラバンは珍しいのだ。招待所の外見は予想よりきれいだ。招待所の前にディスコさえある。何故かその建物は見たことがある。 場違いな感じの建物を夢の中で見た。夢の中なのか、現実なのか懐かしい気持ちに襲われる。 夜遅い事と突然の到着のため招待所での食事は不可能。近くの売店にカップラ−メンや水や果物を買いに行く。 約束どうり奥山、藤原の両君と三人で買い込んだミネラルをガブ飲みする。彼らは一気に二本を、僕は一本とコ−ラを好きなだけ飲む。旅の水不足のストレスを解消した。 次は夕食。部屋に戻りコッヘルでラ−メンを食べる。僕は二個。彼らは3個。りんごもコルラ梨もオレンジもはっさくも食べてコ−ラも飲んで大満足する。気が狂うほど食べた。納得するまで食べて気持ちが悪くて横にもなれないほどだ。明日の為にまた買い物に行く。 バッタリとニアズに出会う。一緒に来いと言うので、三人で行くと隊員が6人ほどいた。近くのウイグル人の為の食堂だった。ラクダ使いさんのウマ−ル、ニアズ、イスラエルと通訳のアユップがいた。我々もその仲間に入り13人でまた酒盛りをする。 あの体調の良くなるウイグル茶とビ−ルで乾杯をして、話が盛り上がる。アユップがすごく気を使って色々の料理やウイグルラ−メンや水餃子を注文してくれる。先ほどあれだけ食べたのにまた食べた。夜中の2時過ぎまで大騒ぎ。 ウマ−ルさん達のおごりになってしまった。ラ−メンとザ−サイのお土産つきで。 砂漠脱出の慶び、満月の月夜の到着、ウマ−ルさんの人柄に感激して騒いだ事、苦行の連続だった旅を心の中に刻んで眠りにつく。 皆さん本当にありがとう。この想い出は一生涯決して忘れません。 |
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3月14日
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9時30分に起きて一ヶ月ぶりに顔を洗う。水がふんだんに使えてなにか特別な日の様な気がする。今朝はトルファン以来のマトモな食事、にもかかわらず昨夜の暴飲暴食が祟ってなにも食べられない。今日からは毎日まともな食事が取れると安心しているせいもある。 今日明日の為のミネラルを沢山買い込んで出発の準備をする。そんなにミネラルを買い込む必要は無いのに昨日迄の“水不足ストレス”がそうさせる。手元にミネラルが無いと不安になる。 手配をしたトラックの荷台に荷物と我々が乗り込んで出発の準備をする。ラクダ使いさん達とはこの米蘭でお別れの予定。お別れの前に全員で記念写真を撮る。真っ黒に日焼けした沢山の顔が並んで、楽しかった事苦労した事を胸に表情は明るい。 この米蘭でラクダ使いさんとお別れ。別れはすごく淋し気持ちにさせる。子供の様に荷台の上から、ラクダ使いさん達が見えなくなるまで僕は手を振っていた。53才の男とは思えない。 トラックは米蘭のオアシスを後にして南に向かう。アルキン山脈が正面に見え左側には雪解け水で溢れそうな水路が走っている。水路は一直線でオアシスの米蘭に向かって流れている。ポプラ並木も無くなって少し走ると三叉路、進路を西に変えて走る。 アルキン山脈が左手に見え裾野を山脈に沿う形でトラックは走る。アルキン山の向こうはチベットがある。チベットにこの後行く隊員が沢山いる。 タクラマカン砂漠の南の端を走る。ロプ砂漠より少し明るい感じがする。すごい土漠で見渡す限り砂漠が続く。真っ直ぐに伸びた道路も途中からは舗装されていない。凸凹の道をかなりのスピ−ドで走る。荷台に乗っている我々は荷台から飛び出しそうなくらい揺れる。フライパンの中の豆状態。煎られてパチパチ跳ねている。その豆が我々。 あまりにもドスンドスンと荷台に叩き付けられるので、脳みそが下に詰まってこれからは今まで以上に記憶し易い。それほど揺れが激しい。 一時間も走らない内に検問場があって、我々が何所へ行くのか問いただしている。僕はバカな奴と思った。だって砂漠の真ん中でこのオアシス以外の何所へ行けると言うのだ。オアシスの周りは広大で恐ろしいあのタクラマカン砂漠なのに。 無事にチャリクリクのオアシスに入場して走る。道路の両側は高いポプラの並木続きオアシスらしい。市街地に向けてはしる、途中ロバの親子がいた。子供のロバがかわいい。おかあさんの横でピョコンピョコンと跳ねている。お母さんロバはロバらしくうつむいて黙々と歩いている。どうしてロバは悲しそうに見えるのだろう。子ロバはあんなにかわいいのに。 市街地に入ると交差点を右折してすぐに公安(日本の警察)を通り過ぎて、旅の終着点のチャリクリクの招待所に着く。ここで自由解散なのだ。 明日のチェルチェン行きのバスの手配をして、ホ−タン、カシュガル、タシュクルガンと旅を続ける予定。まだ1700Kmも西のパキスタンの国境近く迄行く予定。 招待所に着く前にユ−タ−ンして公安へ。皆が唖然とする。何故我々が公安に捕まるのだ。公安の中庭にトラックは停車する。 全員のパスポ−トを集めて総隊長は公安の建物の中に。まもなく通訳として奥さんの王 華が呼ばれる。何があったのだろうと我々はトラックの荷台で話し合う。どうも状況は我々に不利な様子。 あまり具体的な説明もなくトラックが動き出して、まずは招待所に行き荷物を降ろして部屋に入る。ここからの部屋割りは今後の行き先別に、鬼頭、水野、下平と僕が同室。係りの女性が不審な眼差しで僕たちを見ている。 あとから知った事なのだが、中国では結婚していない男女が同部屋に寝る事は禁止。 我々は砂漠のテントの延長で何の疑問もなかったが、それが理由で胡散がられていた。夫婦にしては年齢が違いすぎる。僕と鬼頭さんでも年が離れすぎだし、増してや僕と下平さんではもっと年齢の開きがある。僕は53才で下平さん22才だから親子だ。 全員が事情説明で総隊長の部屋に呼ばれる。どうも楼蘭に無許可で入場した事らしい。そうだとしても何故、公安に咎められる事があるのだ。あまり深刻に考える必要も無いと感じた隊員がほとんどだった。 PM4:00に総隊長と王 華は公安に出頭するようにとの事。大変な事になるなどとは誰もが思わなかった。 お腹も空いたので町に出て食事をする事になった。小さなチャリクリクの町に出て昼食にする。シシカバブ−とスパイシ−な柔かいナンとウイグル茶(黒茶)での楽しいひととき。すごく美味しい。 アイスクリ−ムを食べたりコルラ梨を買ったりしてまるで子供のようにはしゃいで夕方までの時間を過ごす。 我々カシュガル組の同室の四人はバスの便が来週の水曜日迄無いと言われてガックリ。今日は土曜なのでまだ四日も先のことだ。四人で相談してコルラ経由に変更する事にする。コルラであれば我々以外は全員コルラ行きだ。同じ便に同乗を依頼する事にしてホテルに戻る。 まだ総隊長夫妻の二人は戻っていなかった。部屋でごろごろして約束の夕食までの時間を過ごす。 砂漠での想い出に話が弾み、時間の経過が夢の様に進んだ。この様な時が砂漠の中で持てたら良かった。 ところが約束した夕食の8:00を過ぎても二人は戻らない。 8:30頃にやっと総隊長夫妻が戻って来た。早速全員でホテルの横にある楼蘭賓館と言う名前のレストランで中華料理のフルコ−ス。やはり新疆自治区だけあって肉料理は羊の肉が多い。 新疆自治区は東西3000Km以上で南北1500Kmもある広大な地域の自治区。南にチベット自治区があり同じように広大なエリア。北西と北には中央アジアの広大な草原地帯が広がり昔のロシアの影響が強い。西は崑崙山脈を越えてパキスタンがある。 新疆自治区はウイグル族が歴史的にも昔から住み言葉もウイグル語。大昔から遊牧民が多いせいもあって、宗教はイスラム教でアレキサンダ−大王が遠征した過去もありかなり混血民がいる。 目がブル−で髪は金髪の美しい西洋人のような風貌の女性もいる。肌は我々の様な黄色人種とは違い、かなり色白で顔の彫りも深い。ロシアの影響もかなり大きい感じがする。頭に小さな帽子を冠るのがウイグル族の正装。 僕の今の風貌はまさにウイグル族と同じで、頭の帽子とウイグル語が話せればウイグル人そのもの。長い砂漠の冒険旅行の間は一度も髭を剃らなかったから。 砂漠の旅行の成果は辛い旅のせいで贅肉がとれて、日焼けで黒くなり前より精悍になった事。変身するためには、決意や信念も大事だが形から入ればより簡単だ。 念願の楼蘭とタクラマカン砂漠に来られたし、沢山の同志の仲間もできた。橘 瑞超やヘディンや彼の従者のエルデックも心の仲間だしあの白楽天も仲間だ。 僕が砂漠紀行で得ようとしたものは得た気する。心の友が欲しかったのだ。かたや長い期間の今までの生活で失うものもきっと大きい。自分の勝手な職場放棄は仕事仲間の信頼を低下させただろうし、心の友は長い不在で不機嫌に違いないし。 人生は捨てるものもあれば拾うものもある。何かを求めれば、何かを失うに違いない。 桜花とく散りぬとも思ほえず人の心ぞ風も吹きあへぬ 古今集 巻2 貫之 それが人生なのだ。僕の人生の転機になるだろう。 ひとり、燈のもとに文をひろげて、 見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。 徒然草 第13段 兼好法師 |