Tetsuo Ito's Diary

 

2月14日 明日はいよいよ出発。永年の夢であったシルクロ−ドへの旅。タクラマカン砂漠を北から南に580Kmを歩いて縦断する旅。タクラマカン砂漠とは現地の言葉で‘生きて出られない砂漠’。

中国の北京から西へ3000Kmの位置にあり、東西2000Km、南北1000Km、北は天山山脈、南は崑崙山脈に囲まれた世界でも有数の大きな砂漠。

天山山脈の南麓のシルクロ−ドを天山南路(西域北道)と呼び崑崙山脈の北麓のシルクロ−ドを西域南道と呼ぶ。

我々の旅は天山南路(西域北道)のオアシスの町トルファンから西域南道の町チャリクリク迄の580Kmを北から南に駱駝と共に歩くこと。

浄土真宗の門主であった大谷光瑞が実行したあの大谷探検隊の若い僧侶、橘瑞超が1908年に歩いた道と同じ道を辿る旅である。

大唐西域記の中に出てくる高昌国(玄奘三蔵が永く滞在した国、今のトルファン)からクルクタ−山脈を越えて2000年前の西域46国の中で最も有名な国、楼蘭(あの有名なさまよえる湖のたもとにあった国)、ロプノ−ル湖を通って王国の最期の町、米蘭経由チャリクリク迄の冒険旅行。

勿論、100年前の時代とは比べられないけれど、できる限り当時を再現し同じ方法での冒険旅行で橘瑞超と同じラクダと歩く旅。

1900年ヘディンの使用人のエルデックが発見したあの楼蘭が僕の旅の目的地。楼蘭のLAと呼ばれる大仏塔や三間房、住居あと城壁などなど。今の僕は何度も読んだもろもろの書物のせいで頭の中は城内の地図が刻み込まれている。

旅の目的は今までの自分の人生を振り返り、僕の望んだ人生はなんだったのかと‘人生を考える旅’。

あのLAのある場所で和漢朗詠集(枕草子の中での中宮定子と清小納言の共通のアンソロジ−)を読むこと。

54歳になろうとしている僕の夢は玄奘三蔵や中宮定子、清小納言の生きた7、8世紀にはもうすでに廃虚であった国、楼蘭を一目見る事。またシルクロ−ドを旅した昔の人々の想いの一端を少しでも感じる事。2000年も昔に栄えた国の中心都市であった楼蘭王国にこの足で立つ事。偉大な自然と傲慢な人間のありようを感じる事。

何故、玄奘三蔵は西域を通りインドに仏教求法のためとはいえ、17年もの長い時間を費やしてまで行ったのか。何故、橘瑞超は昔のシルクロ−ドを通らずにクルクタ−越えのル−トでLAへ行ったのか?宗教はかくも人間を強くするものなのか。宗教心のあまり無い僕が何故、楼蘭へ行きたいのか。でも楼蘭は間違いなく仏教遺跡。

今までの自分は頭でっかちで過保護で、自分で考えることは出来ても行動できなかった。そんな男が自分で決断して、自分の足で歩いて冒険をする決断をした。

多分、物が溢れ、情報は氾濫し、人間の心の豊かさや人情などと貯蓄(拝金主義)の非相関の国、日本の現状に嫌気を感じてこの旅を選択したのかもしれない。

拝金主義と権利の主張のみの日本の現状には、目を覆いたくなる。

機知に溢れた会話の出来る人間関係(例えば中宮定子と清小納言の様な関係)を夢みて!!

枕草子の中の巻の下 山家 554に

遺愛寺の鐘は枕をそばだてて聴く

香鑢峰の雪は簾をかかげて看る

この句をふまえて、時の中宮定子が、雪が沢山降り積もった朝の庭を眺めて…

清少納言に問う....香鑢峰の雪は いかに と

清少納言は一言も言わずに、ただ簾を巻き上げる。

この様な関係こそが僕の夢みて望む理想の人間関係なんだが。

あるいはお金に左右されない人生を夢みて!!

自分自身を立派に見せる事ばかり考えてきた人生を反省する為に、きっとこの旅を選んだのだろう。

砂漠の旅がどんなものなのかは、僕は勿論何も知らない。でもアフリカの砂漠ではなく

オ−ストラリアの砂漠でもなく中国のシルクロ−ドの砂漠でないと、きっと納得しない自分を知っている。

タクラマカン砂漠こそ僕の望みの砂漠で、かつ天山南蕗の町と西域南道の町が一度で体験でき玄奘三蔵の旅した同じ町、高昌国、楼蘭、米蘭に行ける事。

こんな欲ばりな旅は二度と無いと思ったこと、おまけに駱駝と歩いて行くという魅力。僕は今回の旅に色々なものを求めているのだろう。

自分の人生のあり方、価値観、真に望むものは何なのか?.....

今はわくわく、どきどき、夢と現実を行ったり来たり。

夜の星空や風の音以外は無い世界や、色の無い景色など!!頭の中はメチャクチャで平安朝の世界とユダヤの創世記の世界と現実がゴチャまぜ。

何故そんなところへ行くのかと聞かれれば、返事は簡単 “行きたいから”

本当に僕は何を望んでいるのだろう。まったく分からない。何を探しに行くのかも。いやきっといろいろな雑念を捨てに行く。そんな難しいことは....

ただ“行きたい”だけ。

 

 

 

2月15日 今朝はいよいよ待ちに待ったシルクロ−ドへ出発の日。待ち合わせ場所の名古屋駅西口の南改札口には約束時間の30分前に到着。8:50分に全員集合。新大阪経由関西空港へ集合時間の20分前の10:40分に到着。名古屋駅には仲間の人々4〜5人が見送りに来てくれたみたいだけれど会えずじまい。

新幹線を乗り継ぎ関空行きの特急に乗り関西空港に到着する。空港にはもう沢山のメンバ−がいて、皆うきうきしていた。僕はあまりに自分の荷物が多いのにびっくり。普段の生活をそのまま持ってきてしまったようだ。アウトドアの経験が無い人は基本を知らないので荷物が多い。必要最小限の荷物が基本なのに。僕は勿論、土素人。

事前のマニュアルで個人装備は20Kg以内のメインザックとサブザック。共同装備はテントを始めとして砂漠内での食料、炊事のコンロ、ガスカセットなど。テント関連(ラクダ使いさん用を加えて計5張りノテント)で35Kg、生活装備で4.5Kg、炊事用具で22.4Kg、記録機器で4.6Kg全装備合計65.2Kg。食料関係で209kg。300Kg近い共同装備を15個のダンボ−ル箱で持ち込む。

これ以外は現地調達の予定。炊事用とラクダの飲み水で25gのポリタンを20個、水掘り用のスコップとバケツを各2個。

予備のGPS(マゼラン)は僕が持参する。

ナンとソ−セ−ジとミネラルウオ−タ−は各々400づつ現地で調達する予定。

定刻の13:20分に北京に向けて離陸。フライト時間は3:15分。北京空港は前に来た時と同じようにごたごたして陰気な感じの所だ。空港から北京市内へは高速道路が完成していて前とは雲泥の差だ。前に来たときは、でこぼこ道を砂埃をあげてのひどい道。道の両側はあの柳の木、柳の白い花がいっぱい雪のように飛んでいてすごく感動したのを思い出した。

北京エアポ−ト内で友人の妹に会う。30日後に再び北京に来たときにTELする旨を伝えて我々は出国の手続きへ。北京の街の様子は歩く人々の服装もカラフルになり、背広ネクタイ姿の男性も多くなって、特に女性がおしゃれで素敵な感じで美しくなった。中国は美人が多いのか?。

ホテルはANAホテルで日本の都市ホテルと何ら変わらない。こんなバックパッカ−の様な我々が不釣り合いなくらいきれい。ホテル内では英語も少しは通じるし、インタ−ナショナルな感じ。部屋は水野さん(同じくらいの年齢)と一緒でよかった。

ホテルで¥60、000を両替。3884元になる。高いのか安いのか。手持ちの800元と合わせて4684元。日本との時差は1H。こんなに広い国なのに4000Km離れたカシュガルも時差一時間なんて少し不合理だと思う。

夕食は近くの中華料理レストランでフルコ−スをご馳走になる。勿論北京ダックも出てきたが少し固くて、いまいちだった。

明日は2カップルを除いて全員が万里の長城へ。八達嶺と呼ばれているところ。素敵な食事ときれいなバスタブはあと数日のみ。

 

 

 

 

2月16日 今日は12人プラス張さんとドライバ−(張さんの友人)の14人で万里の長城へ行く。前と比べて道路はすごく立派になって、天安門広場周辺はビルの建築ラッシュですごくきれいな建物が多いし本当に進歩を感じた。オシャレなビルがいっぱいで10年後の中国はどんなに素晴らしくグレ−トな国になるのだろう。PIZZA HAT もあるしKFCもMのマ−クもいっぱいある。

天気は快晴で青い空が広がっている。北京でもこんなに青い空があるんだと驚いた。というのは僕は快晴の天気の北京は初めてだから、今まで数回の北京滞在はいつもどんよりとした日ばかりだったから。気温も20度近くあるみたいで絶好の行楽日より。

行く所は八達嶺にするとのこと。北京市街地より1時間ほどのところ。数ヶ月前に地震のあった張家口へ行く方角の途中にある。

八達嶺は万里の長城のなかでも最も有名な見学場所だそうだ。場所の意味するところは四方八方への道のある所(スクランブル交差点)と言う。僕は初めてでは無いけれど何度来ても素晴らしい所だと思う。入場料は25元傷害保険が必要であれば1元UP。

おお昔(春秋時代、紀元前)に漢族が遊牧民族の匈奴の襲撃を恐れて中国の北辺に何千Kmもの距離を数mもの高さで築いた城壁なのだが、なんとタクラマカン砂漠の東端にある陽関まで続いている。

確かに長城の上はまさに城塞そのものだ。何人もの人が並んで歩けるほど広いし(幅は広い所で10mくらい )、丘(山)の頂上に作られていて攻撃する側からは難攻不落の構造になっている。上からみると、まったくの絶壁が真下に見えて足がすくむ。

長城の内側(南側)はあんずの木が植えてある。前きた時はそのあんずの木の花が満開でまるで桜の園だった。今はまだ季節がはやく枯れ木状態だ。むしろ北側斜面の残雪が少し残っていて、吹き上げてくる風は冷たくてまだ冬の続きか。

そんな素敵な長城のうえを皆で観光客をやってしまった。みなでカメラをパチリ。

昼食は長城のすぐ脇にあったKFCでたべる。ポテトとコ−ラとチキンバ−ガ−で18.5元。我々にはさして高価ではないが、中国人には非常に高価だと思う。

店内は日本なみの美しさでトイレは氷が便器の中に沢山しいてあり、まるで日本のクラブのトイレと同じだと思った。そのうえ、なんとバックグランドミュ−ジックはあのアンプラグド エリック クランプトンのアルバムのなかの“Tears In Heven”が流れているなんて。

ここはアメリカだと思わず錯覚した。中国に今いる事を忘れて。

注文したオ−ダ−がテ−ブルに出てきたので、思わず“TANK YOU”と言うと“YOU ARE WELCOME”だなんて。まったくアメリカだと思いませんか?味のほうも日本よりも美味しいくらい。

次は明の十三陵へ行く。入口の手前に大きな石の亀がいる。この亀に触るとHAPPYになるとの言い伝えが在るらしく、多くの中国人は亀を触っている。僕もHAPPYに触った。“”53才の青春だ“”

体調がいまいちなので十三陵の見学はパスして、通訳の張さんと英語で話をしたが、自分が日常会話程度の英語ですら四苦八苦なのは少し寂しい気持ちがした。

中国人はみな英語が上手だと思う。我々日本人は? 教育方法に問題があると感じた。